理想主義と現実主義の再定義


メディアにおいては、理想主義か現実主義かといった二元論・二項対立的な言説を時々みかけるのだが、理想主義と現実主義をそれぞれ2つに分けてみたい。
まず現実主義。目的を達するためには、あるいは願望や欲望、快楽をみたすためには何をやってもいいという考え方、これを「道義なき現実主義」または「超現実主義」と呼ぼう。
それに対して、目的を達するために現実的な思考をするが、一方で道徳、倫理、道義なども尊重する考え方。理想主義者のように欲望や快楽そのものを否定はしないが、願望や欲望、快楽をみたすためには何をやってもいいという考えは拒否し、願望、欲望、快楽を充足させることと、道徳や倫理、道義を守ることを両立させる考え方。こちらを「道徳的現実主義」、あるいは矛盾した言い方になるが「理想主義的現実主義」と呼ぼう。
次に理想主義。理想を純粋に追及することを重視し、現実との妥協を日和見主義として嫌う考え方。これを「純粋理想主義」または「超理想主義」(あるいは「観念的理想主義」「原理的理想主義」)と呼ぼう。
また、理想を求めはするが、一方で現実を受け入れ、現実を少しずつ理想に近づけることを重視する考え方。実現可能性のない理想を主張するのではなく、理想を実現するための現実的な方法を模索する態度。こちらを「妥協的理想主義」、形容矛盾かもしれないが「現実主義的理想主義」と呼ぼう。
「道徳的現実主義」と「妥協的理想主義」は、ともに理想と現実とのバランスを保とうとする思考なので、この2つをあわせて「中庸主義」と呼べるだろう。
このようにみてくると、「理想主義」と「現実主義」の二元論を、「理想主義(超理想主義)」「中庸主義」「現実主義(超現実主義)」の三元論へと移行できる。

右派・左派と理想主義・現実主義

右派の中で理想主義、観念的な思考をする人を「右派イデアリスト」「右派イデオロギスト」、現実主義的な思考をする人を「右派リアリスト」と呼ぶ。
一方、左派の中で理想主義、観念的な思考をする人を「左派イデアリスト」「左派イデオロギスト」、現実主義的な思考をする人を「左派リアリスト」と呼ぶ。
左翼は一般的に理想主義的だが、現実主義的な思考をする人たち(「左派リアリスト/現実主義左翼」)は、「妥協的理想主義者」(「現実主義的理想主義者」)に該当する。
一方、現実との妥協を嫌悪する人たち(「左派イデアリスト/理想主義左翼」)は、「純粋理想主義者」(「超理想主義者」)に該当する。
右翼・右派・保守派を現実主義者とみなせば、「右派リアリスト」が「道徳的現実主義者」(「理想主義的現実主義者」)にあてはまるかもしれない。
「右派イデオロギスト」をそのまま「道義なき現実主義者」と同一視はできないかもしれないが、このタイプの人がかなりみられるのは確かである。
(そもそも、右翼・右派・保守派を現実主義者とみなすこと自体に無理があるかもしれない。)

「理想主義と現実主義の再定義」応用編:日本の戦争をめぐって

戦前の日本、特に1930年代以降の日本は、世界的な経済危機、緊迫した国際関係の中で国中がいっきに「道義なき現実主義」へと傾いていったといえるだろう。
国益のためには、日本の生き残りのためには何をやってもいいという考えに陥り、国際法も道徳も倫理も無視してひたすら日本の利益のみを追求していった。
<太平洋戦争=大東亜戦争>においては、戦場となった地域の住民たちが多大な被害をこうむっているにもかかわらず、これを植民地支配からの解放戦争だといって正当化した。
自分(たち)のこと、自国のことしか眼中にないという視野狭窄に陥った。
(1910年に韓国を併合した時から「道義なき現実主義」に傾いていったという考え方もできるけれども。)
一方、戦後はその反動から、「思想言論の世界」において「純粋理想主義」の立場の人たちが主導権を握り、「道義なき現実主義」だけではなく、「道徳的現実主義」「妥協的理想主義」の立場にいる人たちすらも保守反動とみなして批判していたように思える。
こうした状況の弊害は、憲法9条自衛隊の問題に関して最もつよくあらわれているだろう。
日本の行った戦争を正当化している「道義なき現実主義者」たちが憲法改正を主張していたために、戦争への嫌悪感をつよくもっていた多くの国民が憲法改正に拒否反応を示す。
一方では、現実との妥協を拒否する「純粋理想主義者」たちが、非武装中立、絶対平和主義的な理想論を唱え護憲を主張する。
現実を踏まえ、その上で実現可能性のある政策を考えなければいけない問題についてまで、右の極論と左の極論がイデオロギー闘争を繰り広げている。
憲法9条自衛隊の問題は、「道徳的現実主義」と「妥協的理想主義」の立場にある人たちが、討議を通じて国民にとって一番よい政策をうちだすべきだろう。
そうしないと、何かをきっかけとして再び政府や国民がいっきに「道義なき現実主義」へと傾いていってしまうだろう。