南北朝正閏論争に関して

宮崎哲弥の「正義の見方」(新潮OH文庫版)の中に、南北朝正閏論争に触れた個所があった。
明治国家の元老山県有朋が、南北朝並立を記述した国史の国定教科書を糾弾し、執筆者の役人を休職処分にしたというエピソードが記述されていた。
天皇を神聖にして侵すべからざる存在とし、日本の統治者・主権者とした明治政府が、明治天皇の属する北朝を「正統でない皇統」とした矛盾。
なぜ、このような矛盾が生じたのか。
歴史的、現実的に考えれば幕末の時代には南朝の皇統が途絶えていたからにすぎないのだろう。
南朝方の血をひいた皇族が生きていたのなら、倒幕派・維新派はこちらの皇族を担ぎあげ、大政奉還は北朝方の明治天皇ではなく、南朝方の天皇に対してなされていただろう。維新の志士たちは、本来担ぎあげるべき南朝の血をひいた天皇が存在していないため、やむなく(矛盾を承知で)北朝の血をひいた天皇を担ぎあげたのかもしれない。
だとすると、なぜ新国家建設後、北朝系を正統とする新しいイデオロギーなり神話なりを生み出さなかったのかという疑問がわく。
生み出したくても生み出せなかったのかもしれないし、矛盾を解消することよりも、南朝イデオロギーを死守することの方が大事だと考えていただけなのかもしれない。
だがここで、学術的には何の根拠もない仮説(思いつきともいうが)を提起してみたい。
それは、「明治国家の指導者たちは、矛盾を承知でわざと南朝系を正統な皇統であるとしたのだ。しかもそれは、明治天皇への対応からあえてそうしていたのだ。」とする説である。
明治国家の指導者たちにとっての天皇は、国民を統治・統合するための手段・道具にしかすぎず、もし天皇が自ら実験を握って親政を敷こうとしたら、その時は後醍醐天皇と同じ目にあう、そのことを天皇に示すためにわざと南朝系を正統な皇統としていたのかもしれない。
山県有朋が怒ったのは、教科書に南北朝を併記することによって、北朝もまた正統な皇統であることになり、それによって天皇が実権をもつ道が開かれることになると考えたからではないだろうか。
ただし、ここで述べた説が仮に正しかったとしても、その後天皇のもつ権威が最大限に政治利用され、軍国主義へと雪崩れ込んでいったのだから皮肉な話ではある。