経済的近代化と政治的近代化



近代化の特徴の1つは、「欲望の解放・自由の拡大」だろう。
農業を基盤にした産業形態では、基本的に人間は自然と調和しながら自足的な経済を営み、「より多くの富を獲得したい」という欲望はあまりみたされなかっただろう。
(支配層・特権階級の間では、人と土地の支配権をめぐる争いがおこり、戦いに勝利した者が「他者を支配する」「富の獲得をめざす」という欲望をみたすことができただろうが。)
近代化した工業を基盤にした産業形態では、自然の支配、経済成長による富の拡大が経済の基本的な形態となった。
自由な経済活動が肯定されるようになると、「より多くの富を獲得したい」という欲望が全面的に解放されることとなる。
人権思想などの近代的な思想が人々に受け入れられるようになると、身分制が(原則的に)廃止され、封建的な身分秩序から解放されるとともに、政治活動の自由も拡大されることとなる。


身分制の廃止、政治活動の自由の拡大など政治的近代化に対しては、多くの人が(非近代的な封建的な秩序に回帰したいと考えている人以外は)肯定的な評価を下しているだろう。
だが、経済的近代化に対しては肯定的な評価と否定的な評価がみられる。
肯定的な評価は、「進歩史観」的な考えがその代表で、「人間が物質的に豊かになること=幸福の増大」と考える。
一方否定的な評価には、「工業化=自然の支配」が環境破壊をひきおこし、やがては地球環境が生物の住めないものになるといったものがある。
また、経済的な富を求めることを道徳的(倫理的)に悪いこととみなす立場からの批判もある。


「欲望の解放・自由の拡大」という特徴は、政治的近代化と経済的近代化、両方にみられるものだが、政治的近代化にはもう1つの特徴がある。
それは、本来「不公平・不公正・不平等な人間の社会」を、(理性や倫理などによって)作為的に「公平・公正・平等なもの」につくりかえようとするものである。
近代の民主主義的な政治制度自体が、政治制度・社会制度を公平・公正・平等なものにつくりかえようとした努力の結果といえる。
ただし、社会をできるだけ公平・公正・平等なものにしようと努力しただけであって、現実に公平・公正・平等な社会を実現した国家・地域はどこにもないだろう。
(それ以前に、公平・公正・平等な社会がどのようなものかについては意見の対立があり、すべての人が納得する公平・公正・平等な社会などは思想や理念の中にも存在していないといえるが。)


日本は戦後、世界第2位の経済大国になり、経済的には近代化したとみなせるが(人によっては、日本の経済的近代化は欧米のものとはちがい、充分に近代化していないと解釈しているかもしれないが)、政治的には充分近代化したとはいえない。
その理由の1つには、日本人が政治的近代化のもう1つの価値観、「不公平・不公正・不平等な社会を、公平・公正・平等なものにつくりかえよう」という価値観を重視していないことがあるように思う。
「欲望の解放・自由の拡大」という価値観は多くの人に受け入れられた。(明治期の身分制度の廃止、立身出世主義、経済活動の自由化など。)
だから、経済的近代化は比較的容易に達成されたし、政治的近代化も半分ちかくは成し遂げたといえる。
だが、政治的近代化のもう1つの価値観がないがしろにされているために、民主主義的な制度や法を輸入し、民主主義的な形式をもった政治制度をつくっても、なかなか欧米のような立憲国家・民主主義国家にはなれないのだろう。
(日本人が「公平・公正」という価値観を尊重していないということは、現在でも目にすることができる。学校の入学試験は、本来公平・公正な条件のもとでなされるべきだが、有名芸能人を特別扱いして合格させるなどということが平然と行われているし、それに対する抗議の声などもあまりみられない。)
ただし、欧米人は日本人と比較すれば「社会を公平・公正・平等なものにしよう」という意識がつよいだろうというだけの話であって、欧米社会が公平・公正・平等な社会であるわけではない。
アメリカなどは何十年か前までは奴隷制の国だったし、自由な経済競争の結果、貧富の差が激しい。
日本は、外国に比べると経済格差が少ないといわれているから、「平等」という価値観は尊重されているかもしれない。


日本人が「社会を公平・公正・平等なものにつくりかえよう」という意識が弱いのは、「自然」という観念のとらえかたに理由があるのかもしれない。
ヨーロッパの自然主義における「自然」は、現実とはちがう本来あるべき姿のことだと聞いたことがある。
現実が、本来あるべき自然の姿とことなるときは、現実を本来あるべき自然の姿につくりかえようという動きがおこるらしい。
社会の本来あるべき自然の姿が「公平・公正・平等なもの」だと考えれば、不公平・不公正・不平等な現実を、公平・公正・平等なものにつくりかえようとするのだろう。
一方、日本の自然主義における「自然」は、現実そのもののことらしい。
現実の姿こそが自然な形であり、これを作為的につくりかえようとすることは不自然な行為と考えるらしい。
現実が不公平・不公正・不平等なものであれば、それこそが自然な姿なのだから、現実を公平・公正・平等なものにつくりかえることは不自然なことであり、やっても無駄なことだと考えているのかもしれない。